2014年9月21日日曜日

音楽に潜む暴力と殺戮の響きを聴き、音楽の根源の虚無に相対する ― パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』(1996 ‐ 青土社)

音楽への憎しみ音楽への憎しみ
(1997/08)
パスカル キニャール

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“「音楽への憎しみ」という表現は、誰よりも音楽を愛した者にさえ、それがどれだけ憎むべき対象になりうるかということを言わんとしている。”(『音楽への憎しみ』P.180)


 フランスの作家、パスカル・キニャール(Pascal Quignard)が 「小論集」というシリーズのひとつとして著し、'96年に刊行されたもの。原題は“La Haine de la musique”。少し前から気になっていた一冊で、最近にようやく手にとって読んだのですが、刊行から20年近く経とうとしている今でもなお刺激的な示 唆と、呪いのような余韻に富んだ一冊でありました。音楽への憎しみというシンプルながら強烈な印象を与えるタイトルだけ読むと誤解を生みそうですが、本書 は単純に音楽への嫌悪を表明したものでも、偏屈的に断罪したものでもありません。著者はかつて、ベルサイユ・バロック音楽フェスティバルの運営委員長を務 めたほどに音楽界での権威的な地位にいた人物でもあったのですが、ある時を境に自らその地位を退いたのです。彼はなぜ、音楽から離れることになったのか?  古今東西の様々な文献・古事を辿りながら、音、声、人間の生来の特性に繋がる種々のエピソードも交えつつ、音楽の根源にあるものを暴き出してゆく本書を 読めば、彼が絶望・諦念にも似た哀しみの境地へいたった一端をほんの少しだけうかがい知ることができます。また、本書は全十章の断章となっており、よくあ る音楽分析・評論の形式をとってもいません。知の逍遥ともいうべき散文の数々は、一読しただけではその意味を汲み取れない部分も多く、読み手は常にうっそ うとした森の中を探り探りで歩いているかのような感覚に囚われます。それは、キニャール氏においても同様だったのではないかと思います。

 いくらか直接的に言及しているといえる章は「第二考」「第七考」「第九考」でありましょうか。「第二考 耳にはまぶたがない」で は、人間の聴覚、聞くこと/聴くことについてクローズアップされています。まぶたでさえぎることができる視覚と違い、聴覚は自らの器官では意図的にシャッ トアウトすることができない。その、「無限の受容性(不可視の強制的な受容)」こそが人間の聴覚の根拠をなしている。音には主観も客観もなく、われわれは 殺到する音に強姦される。〈沈黙〉がもっとも耳が鋭敏になるときだとして章を締めくくります。

“耳よ、おまえの包皮はどこにある? 耳よ、おまえのまぶたはどこにある? 耳よ、ドアは、鎧戸は、膜は、屋根はどこにある?  生誕の地から、そして最後の瞬間まで、男も女も一瞬たりとも休むことなく音を聞いている”(『音楽への憎しみ』P.101)


 そして「第七考 音楽への憎しみ」で は、音への服従、音楽への服従が、イタリア人作家プリーモ・レーヴィ、アウシュビッツの音楽隊に属していたシモン・ラックスによる強制収容所のエピソード も交えて語られます。ホロコーストに加担した唯一の芸術は音楽であった。なぜ音楽は数百万もの人々の殺戮に加担できたのか? 音楽それ自体がひとつの権力 であり、そしてそこから立ち上がる指揮者・実行者・服従者という構造。強制収容所で響き渡った音楽は、人々への安らぎをもたらすために奏でられたのではな く、服従を、そしてその先にある絶望をあらわにするだけであった、と。音楽は痛みを与えるものであり、「死の間隙」に支配されている。「音を楽しむ」と書 いて音楽といわれるように、音楽に対してわれわれは悪しきイメージを抱きにくいのではないかと思います。しかし「音楽は素晴らしいものだ」というある種の 共通認識に立ち、他者にも無意識的にそれを強いているからこそ、大なり小なり様々な軋轢が生まれ出るのではないかとも思うのです。「音楽の力を信じる」と いう耳ざわりのよいフレーズは昨今よく聞くところではありますが、そうのたまうのであれば、音楽の持つ、服従と蹂躙、暴力と殺戮の記法としての負の側面も 信じ、まなざしを向けてもよいのではないかと思うのです。

“音楽を聴くとき、それがいかなる音楽であろうと、それに服従することなく聴くことができるか?
音楽を聴くとき、音楽の外部から聴くことができるか?
音楽を聴くとき、耳を閉じて聴くことができるか?”
(『音楽への憎しみ』P.189)


「第九考 憑きを落とす」で は、音楽の力、歌の力からの逃れについて語られています。人間は自然の音からの身体的な隷属からは脱したものの、今度は電気的なメロディーに従属してし まった。演奏家が聴衆に求めるものは〈沈黙の強さ〉であり、「聞かせてもらう」ということを前提にした極度に虚無的な状態に沈めようとする。ここにもやは り、支配するもの/支配されるものの図式が立ち上がりますし、ある種の強制力もほのめかしているわけです。キニャール氏は「いつの時点から音楽が離れてし まったのか、わたしにはけっしてわからないだろう」と述べる。そして「人間的なものが重きをなしたことなどない」と繰り返され、静かな絶望と苛立ちのな か、虚無的に締めくられるのがこの章です。

“無限に増幅された音楽は、書籍や雑誌や絵葉書やCD- ROMに複製された絵画と同じく、その本来の単一性を剥ぎ取られている。単一性を剥ぎ取られることによって、その現実性も剥ぎ取られている。その結果とし て、その真実性も失っている。増幅されることによって、その出現(アバリツシオン)の神秘性が奪われた。それが奪われることによって、原初の魅惑も美しさ も奪われてしまった。”(『音楽への憎しみ』P235-236)

“現実の過度 な偽装が、現実の大気のなかに広がり、沈んでいる現実の音を押しのけてしまった。コンサートの、生中継の技術的条件に聴衆はますます神経を尖らせ、それに よって聴衆の知識も技術的でマニアックなものになってしまった。要するに音響効果を聴いているのだ。自分が統御しているもの、ヴォリュームを上げたり下げ たり、中断したり、あるいは指先や目で至上権を発動できるものに対して耳を傾けているのだ”(『音楽への憎しみ』P.237)


昨今ではHQ-CDやSHM-CDなど、「高品質・高音質」をうたったCDが次々と登場しています。しかし、盤に封じ込められた音がどれだけ鮮明で生のもの に近くなろうとも、根源的にはやはりまがい物でしかないのではと、ふとした瞬間に思うときがあります。しかしそのことを深く考えてしまうと、芋づる式に自 分のなかの「何か」が壊れてしまう。正直いって認めたくないものがあります。認めたくないからこそ、無意識のうちに思考を停止して音楽を楽しんでいるので す。キニャール氏はその思考を止めなかった。だからこそ、かつては深く愛していた音楽と静かなる決別に至ったのかもしれません。しかし彼が孤独の道を選ん だことへの是非を問うことなど、誰であろうとできはしないでしょう。


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以下は、本書のテーマの周辺をつついた、付記的な内容になります。


小説家の休暇 (新潮文庫)小説家の休暇 (新潮文庫)
(1982/01/27)
三島 由紀夫

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 ところで、三島由紀夫の著作に『小説家の休暇』(1955) と題した自身の芸術観を語るエッセイがあります。そこでは音楽にも触れられているのですが、そこで彼は音楽の根源的なものにいくらか気づいてたふしがうか がえます。音という無形態なものに対する恐怖、音楽の深淵を覗き、演奏家に身をゆだねることの危険について述べています。「だから私は喧騒のあいだを流れる浅はかな音楽や、尻振り踊りを伴奏する中南米の音楽をしか愛さない」とも。

“音楽というものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで、戯れているもののように私には思われる。こういう怖ろしい戯れを生活の愉楽にかぞえ、音楽堂や美 しい客間で、音楽に耳を傾けている人たちを見ると、私はそういう人たちの豪胆さにおどろかずにはいられない。こんな危険なものは、生活に接触させてはなら ないのだ。音という形のないものを、厳格な規律のもとに統制したこの音楽なるものは、何か人間に捕えられ檻に入れられた幽霊と謂った、ものすごい印象を私 に惹き起す。音楽愛好家たちが、こうした形のない暗黒に対する作曲家の精神の勝利を簡単に信じ、安心してその勝利に身をゆだね、喝采している点では、檻の なかの猛獣の演技に拍手を送るサーカスの観客とかわりがない。しかしもし檻が破れたらどうするのだ。勝っているとみえた精神がもし敗北していたとしたら、 どうするのだ。音楽会の客と、サーカスの客との相違は、後者が万が一にも檻の破られる危険を知っているのに引きかえ、前者はそんな危険を考えてもみないと ころにある。私はビアズレエの描いた「ワグネルを聴く人々」の、驕慢な顔立ちを思い出さずにはいられない。作曲家の精神が、もし敗北していると仮定する。 その瞬間に音楽は有毒な怖ろしいものになり、毒ガスのような致死の効果をもたらす。音はあふれ出し、聴衆の精神を、形のない闇で、十重二十重にかこんでし まう。聴衆はそれと知らずに、深淵につきおとされる。……”(『小説家の休暇』P.16‐17)

“他の芸術では、私は作品の中へのめり込もうとする。芝居でもそうである。小説、絵画、彫刻、みなそうである。音楽に限って、音はむこうからやって来て、私を 包み込もうとする。それが不安で、抵抗せずにはいられなくなるのだ。すぐれた音楽愛好家には、音楽の建築的形態がはっきり見えるのだろうから、その不安は あるまい。しかし私には、音がどうしても見えて来ないのだ。(中略)しかし、音のような無形態なものがせまってくると、私は身を退くのだ。昼間の明晰な海 は私をよろこばせるが、夜の見えない海のとどろきは私に恐怖を与える”(『小説家の休暇』P.19‐20)

“何か芸術の享受に、サディスティックなものと、マゾヒスティックなものがあるとすると、私は明瞭に前者であるのに、音楽愛好家はマゾヒストなのではなかろう か。音楽をきくたのしみは、包まれ、抱擁され、刺されることの純粋なたのしみではなかろうか。命令して来る情感にひたすら受動的なあることの歓びではなか ろうか。いかなる種類の音楽からも、私は解放感を感じたことがない。”(『小説家の休暇』P.20)


「夜の見えない海のとどろき」という形容がされていますが、『音楽への憎しみ』には、「第四考 音と夜の関係について」という章があります。また『音楽への憎しみ』第七考にはこのような箇所があります。

“聴覚は、その個人の歴史を通じて、嗅覚よりも、もちろん視覚などよりはるかに先立つ、もっともアルカイックな知覚であり、夜と連携している”(『音楽への憎しみ』P.98-99)


ララバイ (ハヤカワ・ノヴェルズ)ララバイ (ハヤカワ・ノヴェルズ)
(2005/03/24)
チャック・パラニューク

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 さて、「音楽にひそむ暴力と殺戮の響き」というテーマに戻りますが、音楽による殺戮を書いた作品に、アメリカの作家チャック・パラニュークが著し、'02年に刊行された『ララバイ』と いう小説があります。ある時 赤ん坊が連続して不審死する事件が起こり、その「乳幼児ぽっくり病」の要因を調べていくうちに「間引きの歌」という子守歌の存在が明らかとなるのですが、 その歌には聴く者を瞬時に死に至らしめる魔力が備わっている。主人公の新聞記者はこの謎に迫る一方で、それを利用していく…というあらすじ。ストーリーは いささか消化不良気味ではあるのですが、現代社会への痛烈な皮肉やアジテーションも混じえたパラニューク氏特有の文体は本作においても実に刺激的であり、 また啓示的な内容ともとれるものになっています。

“音楽中毒だと自ら進んで認めたがる人間はいない。そん なことは考えられない。音楽やテレビやラジオの中毒などありえない。人はただもっと音楽を、もっとチャンネルを、もっと大きな画面を、もっとボリュームを 必要とするだけだ。なくては生きていけないが、とはいっても、中毒などでは決してない。その気になれば、いつだってオフにできる。”(『ララバイ』P24)

“かのジョージ・オーウェルは、あべこべを書いた。“ビッグブラザー”は監視しているのではない。歌を歌い、踊っている。帽子からウサギを出して人の気を引い ている。ビッグブラザーは、きみが目を覚ましている間、絶えずきみの関心を引きつけておくのに忙しい。きみの注意がつねに散漫であるよう念を入れている。 いつも完全に上の空であるよう念を入れている。ビッグブラザーは、きみの想像力が退化するよう念を入れている。盲腸と同じくらい無用の長物になるよう念を 入れている。きみの意識がつねに満杯であるよう念を入れている。そしてこのくらい満杯だと、監視されているよりもなお不幸だ。意識がつねに世界によって占 領されていると、きみが何を考えているか、誰も気にする必要がなくなる。すべての人の想像力が退化していると、誰も世界に脅威を与えない。”(『ララバイ』P25)


  先ごろ全世界で展開され、iTunesユーザーの混乱と賛否両論の嵐を巻き起こした、appleとアイルランドのロックバンドU2がタッグを組んでの新作 アルバム無料/無差別ダウンロードキャンペーンですが、施策の可否はともかくとして、少なからず暴力性と紙一重な印象を感じさせました。iTunesユー ザーに勝手にデータを送り込むことが可能だということがわかり、『ララバイ』の「間引きの歌」のような、音楽を介した殺戮も夢ではなくなったわけでありま す。これを「現実にはありえない、荒唐無稽だ」と言い切ることは、自分にはできません。少し想像力を働かせれば、そういうことだって十分可能なわけです。

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“聴覚を介して伝染する疫病を想像してほしい。棒や石は人の骨を折る、そしていまや言葉も人を殺すかもしれない。新しい死は、この伝染病は、どこから襲ってく るかわからない。歌。館内放送。ニュース速報。礼拝の説教。ストリートミュージシャン。電話セールスからも死が伝染するかもしれない。学校教師。インター ネットのファイル。誕生祝いのカード。フォーチュンクッキー。テレビを観た百万の人々が、翌朝死んでいるかもしれない。短いコマーシャルソングがもとで。 そのパニックを想像してほしい。”(『ララバイ』P48)


虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)
(2014/08/08)
伊藤計劃

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 パラニューク『ララバイ』では音楽を介しての殺戮が書かれていました。さて、パラニュークから影響を受けた日本の作家に、故.伊藤計劃氏がおります。'07年に刊行された『虐殺器官』は、 内戦と民族衝突が多発する近未来を舞台に、数々の大規模虐殺の背後で暗躍する謎の人物であるジョン・ポールを、米軍大尉として命を受けた主人公が追うとい うストーリー。〈虐殺の文法〉を世界にばら撒くジョン・ポールとはいったい何者なのか? そして〈虐殺の器官〉とは? 方や「音楽」、方や「言語」という 道具立ての違いはありこそすれど、テーマ性は『ララバイ』と共通しています。また、本書の冒頭部分には、キニャール『音楽への憎しみ』の以下の一説が引用 されているほか、ジョン・ポールのセリフのなかにも、同書の内容に基づいたものが見て取れます。そうです、アイデアの源流のひとつにキニャール氏の思想も あるのです。

“ヴェーダ語の文献に見られる奇妙な計算によれば、神々の言葉に付与された人間の言葉が表現しているのは言葉全体の四分の一でしかないと見積もられている。”(『音楽への憎しみ』P.111)
“「音は視覚とは異なり、魂に直に触れてくる。音楽は心を強姦する。意味なんてのは、その上で取り澄ましている役に立たない貴族のようなものだ。音は意味をバイパスすることができる」”

“「耳にはまぶたがない、と誰かが言っていた。わたしのことばを阻むことは、だれにもできない」”

(『虐殺器官』P.225)